• 石川九楊展

     

     

    思文閣
    前期 4月18日(金)– 5月15日(木)
    後期 5月17日(土)– 6月14日(土)
    10:00 – 18:00(休廊:日祝、428 
    ※5月16日は展示替え
  • 後世に残すべき「芸術」に不可欠な要素とは何か。

    それは、圧倒的な「独創性」ではなかろうか。

    石川九楊の「書」には、確かにそれがある。

     

     

    この度、思文閣では、「石川九楊展」を開催いたします。
     
    石川九楊の書は、画なりや書なりやという議論を根本から駆逐する圧倒的な迫力と繊細さ、そして唯一無二の存在感を放ちます。それは、これまで絵画的な文脈で語られ、ある種その中に没してきた「書」を根本から説き直し、東アジアで育まれてきた滔々たる歴史を背景に「言葉」の中にうごめく本質を掬いとり、何よりも生きた表現として我々に示してくれます。
     
    本展覧会は、画廊で行われるものとしては今までにない規模のものであり、4月後半から始まる前期展示では、いわゆる書的情緒からの脱却を追求した70年代の「灰色の時代」の代表作と、それまでの集大成といえる「源氏物語Ⅰ」を中心に展観し、5月からの後期展示では、書業の最初期から最新作までをご覧いただけます。
     
    ぜひお運びいただき、石川九楊の世界をご堪能ください。

     

     


     

  •  四月から約三ヶ月にわたって、日本を代表する美術画廊・思文閣で個 展を開催することになった。
     思文閣とは浅からぬ因縁がある。  
     1982年、私は書家として独立して初めての100点規模の個展を、京都で開催し、東京へ巡回した。  
     開催前日、作品一点が搬入されないまま陳列を終えた。だが、どうも納得できない。「この展覧会は失敗、だめだ。開かないほうがよい」とまで思いつめて頭をかかえこんだが、むろん止められようはずはない。
     翌朝、会場に「大象無形」の扁額が届き、さっそく掛けられた。とたんに会場の空気が緊張感みなぎるそれへと一変した。「これで展覧会は成功する」と安堵感に胸をなでおろした。
     当の作品を、思文閣グループの先代社長・田中周二氏が購入された。
     不惑―四十歳を目前にして、本格的な作品集を出版したい旨、田中周二社長に打診した。すると、「先生の作品好きだから」と二つ返事で引き受け、『しかし―石川九楊作品集』として上梓された。
     居を東京に移し、書の専門画廊を経営していた妻が急逝した後の2022年、事業の世界的展開を始めた思文閣グループの当代社長・田中 大氏より、カタログ・レゾネを出版し、作品を世界に紹介したい旨の申し出があった。
     当時すでに拙著『書』の英語訳版(『TACTION』)、『書に通ず』の中国語訳版(『写给大家的中国书法史』)が出版され版を重ねてもいた(なお、近く『中国書史』の中国語訳、『漢字とアジア』の韓国語訳も各国で出版される)。
     それまで、必然性のない一過性の海外展への誘いは断ってきたが、それでもいくつかはつき合ってきた。田中大社長の申し出は大規模かつ本格的なものであり、熟慮の上、引き受けた。
     かくて、2024年、『石川九楊全作品集』(全三巻)が完成し、幸い、アートバーゼル香港、イギリスのフリーズマスターズロンドン展で注目を浴び、相当の反響を得たと聞いた。「この作品には何と書かれているのか」 という好奇心に満ちた質問も少なくなかったようだ。それは戦後前衛書 がアクションペインティングや抽象画のように「美術に近づく」度合い によって評価されたのとは異なり、東アジアに固有に息づいてきた「〈書 という表現〉のコンテンポラリー性」に関心が向いたという点で、とてもうれしい報告であった。
     今回の展覧会が、眼の肥えたコレクターの厳しい批評に耐えて支持され、国内外に広がり、愛されていくことを心から願っている。
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  • 書の美の解体

    1960s−1980s

    灰色の紙、硬筆のような筆使い、厖大な補助線……

    思わせぶりな書的情緒を否定・拒絶し、

    あらゆるタブー表現に挑む孤立無援の戦い。

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  • 筆蝕の発見と展開

    1990s−2000s

    表現者にとって停滞は頽廃と同義である。

    整序と混沌、創造と破壊、肯定と否定……

    その終わりなき営為こそが新領域を切り拓く。

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  • 書は文学である

    2010s−

    書はいかに<現在>の表現たりえるか、

    すべての作品の根拠はこの問いに存在する。

    言葉の表現としての書は、まぎれもなく「文学」である。

  • Biography

    石川九楊

    書家

     
    1945年福井県生まれ。京都大学法学部卒業。京都精華大学教授、文字文明研究所所長を経て、現在、同大名誉教授。「書は筆蝕の芸術である」ことを解き明かし、書の構造と歴史を読み解く。評論家としても活躍し、日本語論、日本文化論は各界にも大きな影響を与える。作品制作・執筆活動、いずれの分野でも最前線の表現と論考を続け、制作作品は2,000点以上、著作刊行は100点を超える。2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」の題字を揮毫。
     

    年譜

  • “ 私はかつて、ロートレアモン(Comte de Lautréamont, 1846-1870)の『マルドロールの歌』の一節を引いて、現代においては、言葉と書とは「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように」出会うしかないと書いた。文を書き綴る場ににじみ出る書きぶりの一種の味が書であった時代の、文と書の牧歌的な結合を切り裂かれ、それぞれに自立を目指し、近代の言葉(詩文)から切り離された書(筆蝕)は、戦後前衛書の段階に至って、動跡と色彩と造形の自立によって、言葉から乖離し、うまく言葉との回路をつなげないでいる。これに対して、私は、近代的な筆蝕の自立を認めつつも、言葉との回路の回復を慎重に模索することが必要不可欠であると考えてつづけている。 (中略) これまでの私の書の道行がそうであったように、私の書は今後どのように展開するかは予想もつかない。だが、これまでの延長線上に想い浮かべられるようにも思えない。 なぜなら、私は、「書の究極のゴールは、誰もが普通に書いて、どの字も美しい」時代への到達であると考えている。しかしいまだ、その未来像が具体的に描かれてはいない以上、現在のような「シュールレアリスム」的出会いで可よしと判断しているわけではない。困難な営為ではあるが、もう少し先まで行かねばならないのである。 ” 石川九楊「書の領域と表現の可能性」(『近代書史』名古屋大学出版会、2009年)より抜粋

    “ 

    私はかつて、ロートレアモン(Comte de Lautréamont, 1846-1870)の『マルドロールの歌』の一節を引いて、現代においては、言葉と書とは「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように」出会うしかないと書いた。文を書き綴る場ににじみ出る書きぶりの一種の味が書であった時代の、文と書の牧歌的な結合を切り裂かれ、それぞれに自立を目指し、近代の言葉(詩文)から切り離された書(筆蝕)は、戦後前衛書の段階に至って、動跡と色彩と造形の自立によって、言葉から乖離し、うまく言葉との回路をつなげないでいる。これに対して、私は、近代的な筆蝕の自立を認めつつも、言葉との回路の回復を慎重に模索することが必要不可欠であると考えてつづけている。
    (中略)
    これまでの私の書の道行がそうであったように、私の書は今後どのように展開するかは予想もつかない。だが、これまでの延長線上に想い浮かべられるようにも思えない。
    なぜなら、私は、「書の究極のゴールは、誰もが普通に書いて、どの字も美しい」時代への到達であると考えている。しかしいまだ、その未来像が具体的に描かれてはいない以上、現在のような「シュールレアリスム」的出会いでしと判断しているわけではない。困難な営為ではあるが、もう少し先まで行かねばならないのである。

    石川九楊「書の領域と表現の可能性」(『近代書史』名古屋大学出版会、2009年)より抜粋

  • Interview

  • Journal

  • Publication

  • Information

    会期
    前期 2025418日(金)− 515日(木)
    後期 2025517日(土)− 614日(土)
     
    時間
    10:00 – 18:00(休廊:日祝、428
    ※5月16日は展示替え
     
    会場
    思文閣 京都本社
    〒605-0089
    京都市東山区古門前通大和大路東入元町355
     
    お問い合わせ
    Tel: 075-531-0001 Email: info@shibunkaku.co.jp