大入札会 特集記事Ⅶ 陶芸のまち・益子——浜田庄司と加守田章二

  • 大入札会 特集記事Ⅶ 陶芸のまち・益子——浜田庄司と加守田章二

  • 巨匠・浜田庄司

     
    浜田庄司は、柳宗悦が主唱した民藝運動において、陶芸の実践の中心的役割を果たした作家です。昭和30年(1955)には、重要無形文化財「民芸陶器」の保持者に認定され、同43年(1968)には文化勲章も受章するなど、名実ともに日本を代表する陶芸家となりました。
  • 陶芸のまち 浜田庄司の一大業績の拠点となったのは、栃木県の益子でした。その窯業地としてのはじまりは、江戸後期に常陸の笠間で焼き物を学んだ大塚啓三郎という人物がこの地に良質な陶土を見出し、窯を開いたことだといいます。当時は、関東地方には笠間焼以外に大規模な産地が少なく、益子は、江戸・東京への新たな焼き物供給地として隆盛しました。浜田が魅力を感じたのも、良質な陶土と釉薬の原料が豊富であることに加えて、「用」にしっかりと根差した質実剛健な風土であったのでしょう。 大正時代には、それまで中心的に生産していた土鍋などの調理器具が金属製の器具にとってかわられるなかで、ひと頃のような繁盛はみせなくなっていたようです。浜田庄司が移り住んだのは、こうした産業の転換期にあたりました。
    LOT 325 掛合扁壷》

    陶芸のまち

     

    浜田庄司の一大業績の拠点となったのは、栃木県の益子でした。その窯業地としてのはじまりは、江戸後期に常陸の笠間で焼き物を学んだ大塚啓三郎という人物がこの地に良質な陶土を見出し、窯を開いたことだといいます。当時は、関東地方には笠間焼以外に大規模な産地が少なく、益子は、江戸・東京への新たな焼き物供給地として隆盛しました。浜田が魅力を感じたのも、良質な陶土と釉薬の原料が豊富であることに加えて、「用」にしっかりと根差した質実剛健な風土であったのでしょう。
    大正時代には、それまで中心的に生産していた土鍋などの調理器具が金属製の器具にとってかわられるなかで、ひと頃のような繁盛はみせなくなっていたようです。浜田庄司が移り住んだのは、こうした産業の転換期にあたりました。
  • 浜田庄司と益子 「私の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」——昭和52年(1977)に行われた回顧展に寄せた、浜田庄司自身の言葉です。 東京に生まれた浜田庄司は、少年の頃から工芸に志し、板谷波山に憧れて彼が教鞭を取っていた東京高等工業学校に入ります。在学中、先輩に当たる河井寬次郎や、富本憲吉、バーナード・リーチ等の仕事を知り、卒業後は京都市立陶磁器試験場に就職します。ここで、河井寬次郎とともに釉薬の研究に携わり、また、奈良の安堵村に窯を構えていた富本憲吉との交遊を深め、「道を見つけ」た浜田は、ついでバーナード・リーチと知り合い、リーチとのつながりから、さらに柳宗悦や志賀直哉の知遇を得ています。そして、リーチに誘われて英国へ渡り、セント・アイブズのリーチ窯の築窯に協力しました。ここから足掛け四年にわたる英国での作陶経験が、彼の仕事の「始まり」だったというわけです。沖縄は、この英国滞在の後、数ヶ月滞在しては作陶した壷屋窯を指します。益子には、これと相前後して間借りのかたちで住むようになりました。 このように国内外のさまざまな土地で学び、経験を積んだ浜田庄司が最終的に選んだのが、益子の地でした。河井寬次郎や富本憲吉、そして柳宗悦との交流のなかで確信となった「用の美」の理想実現のために、もっとも適した場所であると考えたのでしょう。
    LOT 326 《鉄絵々替皿 六客

    浜田庄司と益子

     
    「私の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」——昭和52年(1977)に行われた回顧展に寄せた、浜田庄司自身の言葉です。
    東京に生まれた浜田庄司は、少年の頃から工芸に志し、板谷波山に憧れて彼が教鞭を取っていた東京高等工業学校に入ります。在学中、先輩に当たる河井寬次郎や、富本憲吉、バーナード・リーチ等の仕事を知り、卒業後は京都市立陶磁器試験場に就職します。ここで、河井寬次郎とともに釉薬の研究に携わり、また、奈良の安堵村に窯を構えていた富本憲吉との交遊を深め、「道を見つけ」た浜田は、ついでバーナード・リーチと知り合い、リーチとのつながりから、さらに柳宗悦や志賀直哉の知遇を得ています。そして、リーチに誘われて英国へ渡り、セント・アイブズのリーチ窯の築窯に協力しました。ここから足掛け四年にわたる英国での作陶経験が、彼の仕事の「始まり」だったというわけです。沖縄は、この英国滞在の後、数ヶ月滞在しては作陶した壷屋窯を指します。益子には、これと相前後して間借りのかたちで住むようになりました。
    このように国内外のさまざまな土地で学び、経験を積んだ浜田庄司が最終的に選んだのが、益子の地でした。河井寬次郎や富本憲吉、そして柳宗悦との交流のなかで確信となった「用の美」の理想実現のために、もっとも適した場所であると考えたのでしょう。
  • 浜田庄司の技法 今回の入札会には、三点の浜田作品が出品されています。LOT 325《掛合扁壷》は、四角い器形の上半分を「糠白(ぬかじろ)」という白釉、下半分を黒釉とで掛け合わせ、その中央に両者が混ざり合うグラデーションが生み出されています。最下部は、益子に特有の「柿釉」が入って浜田らしさをより一層強めています。 まず白い釉薬を掛け、そこに蝋抜きを施した上で海鼠釉を掛けています。そして、鉄釉でそれぞれ異なる文様を描いたLOT 326《鉄絵々替皿》は、綿密に計画された釉掛けと焼成の手順に、即興的な絵付けの偶然性が表情を与える浜田ならではの佳作です。 そしてLOT 149《塩釉丸紋香炉》に使われる塩釉は、益子伝統の素材ではなく、ドイツ近辺で使われていた技法を浜田が日本に持ち込んだものとされています。コバルトなどで絵付けを施した後、高温にした窯内に粗い塩(岩塩など)を加えて窯を密封すると、瞬時に燃えてソーダガスが発生し、それが胎土の珪酸と化合して粒状のガラス質皮膜が作られ、独特の器肌を作り上げるものです。
    LOT 149 《塩釉丸紋香炉》

    浜田庄司の技法

     
    今回の入札会には、三点の浜田作品が出品されています。LOT 325《掛合扁壷》は、四角い器形の上半分を「糠白(ぬかじろ)」という白釉、下半分を黒釉とで掛け合わせ、その中央に両者が混ざり合うグラデーションが生み出されています。最下部は、益子に特有の「柿釉」が入って浜田らしさをより一層強めています。
    まず白い釉薬を掛け、そこに蝋抜きを施した上で海鼠釉を掛けています。そして、鉄釉でそれぞれ異なる文様を描いたLOT 326《鉄絵々替皿》は、綿密に計画された釉掛けと焼成の手順に、即興的な絵付けの偶然性が表情を与える浜田ならではの佳作です。
    そしてLOT 149《塩釉丸紋香炉》に使われる塩釉は、益子伝統の素材ではなく、ドイツ近辺で使われていた技法を浜田が日本に持ち込んだものとされています。コバルトなどで絵付けを施した後、高温にした窯内に粗い塩(岩塩など)を加えて窯を密封すると、瞬時に燃えてソーダガスが発生し、それが胎土の珪酸と化合して粒状のガラス質皮膜が作られ、独特の器肌を作り上げるものです。
  • 鬼才 加守田章二

     

    さて、この益子を揺籃(ゆりかご)として、その造形的鬼才を花開かせた陶芸家がいます。大阪に生まれた加守田章二は、京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学し、教授・富本憲吉、助教授・近藤悠三の教えを受けました。卒業後は、日立製作所の大甕(おおみか)陶苑(茨城県日立市)の技術員の職を得ますが、作家としての制作意欲は抑えきれず、職場の理解を得て益子の塚本製陶所に研究生として出向したのち、翌昭和34年(1959)26歳で職を辞し、益子で休業していた窯元の窯を借りて陶芸家として独立を果たしました。益子で一般的だった作風とは違っていたため、初窯はまったく売れず、二度目の窯出しのとき、浜田がやって来て加守田の作品を褒めたので、ようやく益子の業者も彼の作品を見直した、という逸話が残されています。
  • 加守田章二の益子時代 今回出品の二点(LOT 327・328)は、いずれも加守田章二の益子時代の作例です。キリッと立ち上がる口縁、端正な輪郭に緊張感みなぎる轆轤引きの技術を前提として、鉄分を多く含み焼成によって赤色を呈する益子の土、そして還元焼成可能な穴窯を構えて実現した草色(緑色)に発色する灰釉と、産地の特色を生かした作品となっています。 昭和44年(1969)に岩手県遠野に窯を築いて以来、年一回の個展ごとに大きく作風を変え、決して同じところにとどまることのなかった加守田ですが、その陶芸家としての基礎体力は、益子という環境に育まれたものでもあったでしょう。制作拠点を遠野に移した後も、家族の住まう家は益子にあり続け、弟子一人を連れて遠野に滞在し、その年の制作を終えると益子に戻るという生活を亡くなるまで続けたのでした。
    LOT 327 《灰釉花瓶

    加守田章二の益子時代

     
    今回出品の二点(LOT 327・328)は、いずれも加守田章二の益子時代の作例です。キリッと立ち上がる口縁、端正な輪郭に緊張感みなぎる轆轤引きの技術を前提として、鉄分を多く含み焼成によって赤色を呈する益子の土、そして還元焼成可能な穴窯を構えて実現した草色(緑色)に発色する灰釉と、産地の特色を生かした作品となっています。
    昭和44年(1969)に岩手県遠野に窯を築いて以来、年一回の個展ごとに大きく作風を変え、決して同じところにとどまることのなかった加守田ですが、その陶芸家としての基礎体力は、益子という環境に育まれたものでもあったでしょう。制作拠点を遠野に移した後も、家族の住まう家は益子にあり続け、弟子一人を連れて遠野に滞在し、その年の制作を終えると益子に戻るという生活を亡くなるまで続けたのでした。
  • 「土」に根ざす芸術 陶芸——土を捏ねて焼成し、器やかたちを作る芸術は、なにをおいても、「土」と「火」という、創作の多くの過程を自然の営みに依拠するところが一つの特徴といえます。浜田庄司は、益子という土地との出会いなくしてはこのような巨大な業績を残すことはできなかったでしょうし、益子もまた、浜田庄司という存在なくして、「陶芸のまち」としてこれほど親しまれることもなかったでしょう。 加守田章二のような天才的作家も、出発は、休業していた窯を借りてのものでした。その最初の作陶を支えたのは、まさしくその「陶芸のまち」としての益子の環境だったのです。
    LOT 328 《灰釉花瓶

    「土」に根ざす芸術

     
    陶芸——土を捏ねて焼成し、器やかたちを作る芸術は、なにをおいても、「土」と「火」という、創作の多くの過程を自然の営みに依拠するところが一つの特徴といえます。浜田庄司は、益子という土地との出会いなくしてはこのような巨大な業績を残すことはできなかったでしょうし、益子もまた、浜田庄司という存在なくして、「陶芸のまち」としてこれほど親しまれることもなかったでしょう。
    加守田章二のような天才的作家も、出発は、休業していた窯を借りてのものでした。その最初の作陶を支えたのは、まさしくその「陶芸のまち」としての益子の環境だったのです。
  • 日本各地には、それぞれの特色を持つ焼き物が数多くあり、それが、日本の陶芸という文化の深みを支えているといえるでしょう。思文閣大入札会では、今回ご紹介した作家作品にかぎらず、それぞれの土地と作家たちに育まれた魅力あふれる陶芸作品も多数出品しております。増刊号への出品作品は、思文閣銀座にてご覧いただけますほか大入札会専用サイトでも詳細画像の閲覧・ご入札が可能です。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

     

     

    大入札会下見会 開催概要
    2026年 1月19日 – 1月25日  *入札締切 17:00
    LOT 001~186 ぎゃらりぃ思文閣 <Google Maps>
    LOT 301~331 思文閣銀座 <Google Maps
    10:00 – 18:00 *最終日は17:00迄