石川九楊――筆蝕の魅力

高階秀爾
西洋美術振興財団理事長・東京大学名誉教授

「書」とは「書く」ものではなく、「彫り刻む」もの、すなわち「彫刻」にほかならないということを、私は石川九楊から教えられた。それは、ほとんど啓示に近いものであった。そのことによって、かつて私が小学生以来「お習字」と教えられて来たものが、実は「接触、摩擦、離脱」という力業による「筆蝕のドラマ」が演ずる演劇でもあることを思い知ったのである。

事実、そのドラマを演じる石川九楊の制作の仕方は、足を大きく踏んばり、手を上に高くのばして、力をこめて描線を描き出す。その姿は、フランスの抽象画家ピエール・スーラ―ジュが、特注の大きな刷毛に粘性の強い絵具をたっぷりとつけて縦横の太い描線を描く時の姿勢を思い出させる。まさしく力業にほかならないのである。

それと同時に、石川九楊のその制作の姿は、吉田兼好の『徒然草』に登場する「木登りの名人」と重ね合わされた。「名人」は弟子が高い木登りをするのを黙ったままじっと見守り、木の瘤(こぶ)を足で探り、太い枝で身体を支えながら高い樹上に登り降りするのを眺めるだけであったのに、いよいよ地上に近づいてあと一歩という時にはじめて、「心せよ」と言葉をかけたという。あと一歩という時になって、安心して懈怠の心が生じるのを戒めたのである。「名人」のその心の有り様を、石川九楊は充分に心得ていた。つまり石川九楊は「筆蝕の名人」であると言ってよいであろう。

その石川九楊が制作して生み出した作品群は、それぞれしなやかで強靭な筆の跡をとどめているが、全体を通覧した場合、どのような特質を備えているのだろうか。個々の作品は、あるいは水平線と垂直線の組み合わせであったり、奔放自在、勝手気儘な筆跡の戯れであったり、さらには自己の個人的思いや「雪月花」などの日本の伝統的美意識に支えられたりして、一見ばらばらなように見える。なかには、漢字を分解して各部分を紙面に適当に配置したような作品もある。だがそのような作品でも、各部分と紙面との緊張関係は失われていない。というより、各部分は紙面構成に重要な役割を果している。この紙面構成に見る確かな秩序感覚は、石川九楊の大きな特質である。われわれはその自在で堅確な秩序感覚に、限りない魅力を覚えるのである。