周知のように石川九楊は書家である同時に、古典から今日にわたる比類のない書の論客でもあって、一介の美術評論家である私には、到底、石川の仕事の全貌を語る資格はない。そこで本稿では、石川の書と絵画との関係という観点を軸にして、愚見を述べることにする。
東洋にはいわゆる書画一致論という長い歴史を持った「イデオロギー」がある。これについても私に知識があるわけではないが、根幹にあるのは書と画は筆法が同じであると同時に起源をも同じくしているという考え方であるとはいえよう。筆法の問題はさておくとして、しかし起源が同じというのは、どうであろうか。太古の闇の中の話だから、なんとも反証のしようはないのだが、私には素直には受け入れがたいところがある。
私は何も画が先にあり、そこから文字が分化したなどといいたいのではない。話は逆であって、画は文字が誕生することによって事後的に発生した(あるいは発生させられた)のではないかと考えているのである。こういえばもとより文字というものを持っていなかったアボリジニのような部族芸術は絵画ではないのかという反論が聞こえてきそうである。たしかにアボリジニの芸術は絵画としても素晴らしい。しかし、それは外部の目が見出した近代主義的な価値なのであって、文字を持たない文化に(あるいは文字の誕生以前の文化に)あらかじめ存在していたのは、書と画を潜在的な前提としない名状しがたいイメージであるはずのだ。そのことをもって同根説を唱えること(文字に対する画の事後性を否定すること)は歴史主義の悪しき転倒というべきであろう。名状しがたいイメージを肯定的にではあれ未分化な状態のイメージと見なすのは、文字以前のイメージの意味を矮小化しようとする発展史観に侵されているように思うのである。たとえそれを文字的な要素と絵画的な要素が混然一体となった素晴らしさと言い換えたところで発展史観の立場から評価していることには変わりはないのだ。
私たちはそのような発想に立つのではなく、つまり書と画の関係を同根説や未分説に依拠して矮小化させてしまうのではなく、より本質的な視野をもった課題として捉え直すべきではないか。いささか独断的にではあるが、以下、石川九楊の書の位相をいくつかの作品と九楊自身の解説に即しつつ、そのような視点で考察してみることにしよう。
まず問題にしておきたいのは、書と文字の関係である。ここで"関係"という言葉を持ち出すことは奇妙に思われるかもしれない。書が文字を前提にしていることは自明の理であり、たとえば森田子龍の一文字書のように必ずしも一般的な意味での可読性を備えているとは限らないにしても、文字以外のなにかを対象にしているわけではない。九楊もその例外ではないはずなのだが、しかし実作者としての彼の文字論は簡明にして極めてラジカルでもある。私たちはそこで文字は書くことの抜け殻であるというひそかな真実を告げられるのだ。
主要なテキストである『筆蝕の構造』で、彼は端的にこう記す。「東北アジア漢字文化圏に生活している私たちは『文字』という枠組に目をくらまされている」。なぜなら「『語はほぼ文字に等しい』と捉えられ、その命題の主従関係が逆転されて、『文字は語に等しい』という関係が成立するかのように錯覚され、言葉と文字が区別されることなく、混同され、混乱を来たしている」からである。[1] 続けて彼はこうも記す。「書という一種の筆跡美学の体系が東北アジアに大手を振って存在しつづけたことは、東北アジアの書き言葉が、世界思想的には一種の病んだ姿を保存しつづけているということに他ならないという言い方が、西欧アルファベットの側からは可能である」「私たちは『文字』という虚構の枠組に訣れを告げ、『書く』ことを考察しなければならない。『文字』を考察しても出てくるのは誤謬の論ばかりだが、『書く』ことを考察するとき、確実に豊かな視野が開けてくる」。(2)
私たちは虚構の体系である文字ではなく、書くこと自体を対象化しなければならないというのは考えようによっては一種のエクリチュール論といえなくはないが、より具体的には"筆蝕"、すなわち"尖筆の尖端と紙との接触と摩擦と離脱の劇"を直接的に対象化せよということでもある。文字とは抜け殻であるという挑発的な警句は、その謂に他なるまい。
個別の作品を取り上げる前にもう一つ紹介しておきたいのは、初期に習作として書かれた中国の古典の臨書(1968年)に関する彼自身の発言である。近代日本での臨書は「古典への『写生的』接近と理解を意味する」が、結果としてその多くは「古典の特徴の自己流の誇張に終始して」いる。その臨書法は、『主観的臨書』という不思議な主張からもたらされている」が、それでは「自己肯定と、思考停止の過去性つまり神話的スタイルの再生しか招かない」(3)というのである。
注目されるべきなのは、ここで九楊が比田井天来以来の「主観的臨書」を「神話的スタイル」と形容していることである。手島右卿の古典の臨書も「特徴的な誇張はみられても、書字の微粒子的律動である筆蝕とスタイル=書体は手島流を一歩も出ず、何も書いても同じスタイルに収斂するのである。」(4)
唐突に思われるかもしれないが、私は九楊がここで批判的に用いている"神話的"という言葉を、ベンヤミンが『暴力批判論』(5)で論じている「神話的暴力」という概念に重ねてみたい誘惑に駆られる。
「神話的暴力」とは支配者の側による法措定的な暴力であり、ベンヤミンはそれに法を破壊する暴力である「神的暴力」を対峙させている。前者に比べて後者の定義は謎めいているが、神話的暴力からの解放をもたらす直接的な暴力であるには違いない。
手島らの臨書では、すでに出来上がってしまっている言葉の枠組、神話的スタイルを通してしか見る(認識する)ことはできないと九楊は批判する。それはまさに法措定的な臨書なのだが、九楊による臨書は「そこに忍び込む過去のスタイルや枠組みを解体し、自由な眼(に始まる全身体的認識と感覚の総合)による不断の点検と再生、獲得を目指すのである」。(6)そのことを神的暴力と見なすのには無理はあるにしても、臨書とは過去のスタイル(神話的スタイル)の解体であり再生であるとする一見逆説的な写生への取り組みは来るべき書を予告するものであっただろう。あえていうならば、それは論語の為政篇の「温故知新」を髣髴とさせなくもない。この箴言は「故きをたずねて新しきを知る」と読み慣らされているが、「温」に尋ねる、学ぶ、調べるといった意味はなく、白川静によれば皿の上に肉(日)を乗せ水を加えて煮るということであるから、字義通り「故きをあたためて新しきを知る」と読まれなければなるまい。私なりに拡大解釈すれば単に過去に学ぶことが新しさをもたらすのではない、過去は未だ可能性の状態にあり、新しさとはそれを温め、再び生きた状態にするということになる。九楊における臨書も、古典のスタイルを学ぶのではなく、古典がかつてそのスタイルを生み出したその新しさの創造の力学を追体験的にそれは蘇らせるということではなかったかと思うのだが、いかがであろうか。
さてこれから取り上げる石川九楊の作品は、いずれも彼の主要作ではあるが、最初に記したように絵画との関係という、書を論じるにはかなり偏った視点で選んだもので、しかも編年的ではないイレギュラーな構成になってしまっていることをお断りしておかなければならない。
最初の三篇は、いずれも荒地派の詩人田村隆一の初期の作品「立棺」の言葉を書いたもので、「わたしの屍体に手を触れるな/おまえたちの手は/『死』に触ことができない」で始まり、緊張感に満ちた断言を畳みかける詩行は、私が出会った最初の現代詩の世界であり、荘厳なる思想詩として戦後という時代の中に屹立していた。おそらく石川九楊にとっても同じような出会いがあったはずである。この詩人とはその後、晩年まで親しくさせていただいた(というより途方もない酒飲みの破天荒な日々に付き合わされた)という個人的な思いもあって、まずは≪立棺≫から始めることにしたのだ。
≪吊≫(1970年)は≪立棺≫のシンボリックな一文字(「わたしの屍体は/文明のなかに吊るして/腐らせよ」から取ったもの)だけを書いた作品である。九楊の自註によれば、存在の宙吊状態である「吊」を描くために白い紙を墨で灰色に染め、「吊」字の周辺に水平と垂直の四角い補助線を加えたという。「<補助線>を加えた時、それまで、どうしても『書道作品的情緒』を越えられなかった言葉が、いっきに同時代の言葉へと姿を変えた」(7)というのである。
画面を見ても頷ける発言ではあるが、補助線とは幾何学の用語であって、書で使われることはなかったであろうから、この方法の導入は九楊の作品におけるフォーマルな意味での転換点をなしたと思われる。ただし吊の字画に比して補助線はやや薄墨で描かれていることもあって、一文字としての可読性はまだかろうじて維持されてはいる。
そのほぼ四半世紀後に制作された≪田村隆一 立棺(Ⅱ−1)≫(1996年)は≪歎異抄≫や≪源氏物語≫のシリーズでも試みられていた「横断書法」のバリエーションで、上に小さな杯形を乗せた縦長の三角形(構築物としてみれば細長いピラミッド形)の左辺に「立棺」の全文字を記したもので(可読性はほとんどないが)、文字からは微細な揺らぎや空隙をはらんだ水平の平行線がびっしりと引き込まれ、右半分から外の余白にかけてはところどころに文字らしき形象を交えた網目がランダムに縺れている。書は詩の絵解きではありえないが、「私の死体を地に寝かすな」「わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」という詩のモチーフと渡り合う不可思議な構築物とはいいうるだろう。
≪田村隆一 立棺(Ⅱ−8)≫(1996年)も≪源氏物語≫のシリーズにも登場していた垂直線のバリエーションで、画面全面に繰り返される平行線のプロセスが不可避的に発生させるわずかな乱れは、このオートマチックなドローイング(鑑賞者の側から見ればだが)が本来の目的としていたところの派生効果であるといってよい。右上隅で行頭の位置が不規則になるのも、見方次第ではシステム化されかねない書のプロセスへの自己批評をなしているのである。
≪源氏物語Ⅱ 澪標≫(1992年)は、まさにエロスの形象としての書である。自註には「一字の中の一つの画が一本の線となることも、逆に一語が一本の線で書かれることもあった」(8)とあるが、右上の隅から放射状のうねる線として広がる黒髪は、書くことが描くことでもあるという危険な背理を帯びているようでもある。
≪李賀詩 感諷五首(五連作)≫(1992年)は高さ360cm、幅192cmという巨大なサイズの5点からなる作品で、そのうち4点はわずかな余白は残されているもの、極端な滲みで画面はほぼ漆黒に埋め尽くされており、他の一点は全面がモノクロームの画面と化してしまっている。もとより可読性は見出せない。九楊は滲みの美学を、人間が書いた以上に出現する、偶然に頼るいわば窯変の美学であるとする。(9)それをしも書と呼ぶとしたら、筆蝕を潜在させているからであろう。私は全面が漆黒の画面を行き着くところまで行った作品として評価したいのだが、彼はそれを偶然に頼る美学の「アジア的苦さ」(10)と見なしている。そのことの是非はともあれ、それ以上先に進めないのが事実であるからに、この後、顕在的な筆蝕に立ち戻るのは当然といえば当然の話ではあった。
さて石川九楊は1980年代初めから90年代半ばにかけて上記の源氏物語以外にも徒然草、方丈記など日本の古典文学を集中的に取り上げているが、なかでも注目されるのは二十数篇が制作された歎異抄のシリーズである。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という意表を突く正論(悪人正機説)で知られる歎異抄だが、彼はこのシリーズの終わりの方に位置する≪歎異抄No.18≫(1988年)で、それまでか何度か挑戦しながらも挫折に終わっていた歎異抄全文を書き込むという目論見をついに実現させている。さして大きいとは言えないサイズ(92.0×56.5 cm)の画面(あえて画面という言葉を用いておく)をほぼオールオーヴァーにさまざまなイメージで埋め尽くした作品である。基調をなすのは横と縦の画を引き伸ばした長短の直線だが、そこに斜めの線や弧、渦巻き、可読性のある文字などが挿入されている。線の細さが一定していることからは一見ペン(硬筆)画のように思われてしまうかもしれないが、すべて毛筆で書かれたものである。ところどころに毛筆ならではのぼてっとした紡錘形やドット、弧などが配されてもいて、それらが硬筆的な細い線と共存しているという異種混交のリズムがこの作品の特色をなしてもいるのである。
紙に関して言うと、彼は歎異抄のシリーズの初めには墨の吸い込みのよい本画箋紙に書いていたが、それがもたらすニジミやカスレの効果を退け、筆尖の跡をそのまま定着させるために途中からニジミのない雁皮紙を用いるようになった。先に書かれた筆画を後からズバリと切断するという交叉の効果も雁皮紙が可能にした表現であると彼はいう。
九楊はそれまでの古典文学や歎異抄のシリーズで培ってきた方法を総動員した≪歎異抄No.18≫に至って、ようやく全文を同一の画面に収めることに成功したことになるが、しかし再三の挫折にもめげず、彼がこの困難な挑戦を貫いたのはなぜであろうか。
ここからはおそらく書家の意図とはかけ離れているかもしれない、私自身の独断的な解釈になることをお許しいただきたい。この作品に続けて九楊は≪歎異抄No.19≫)1988年)を制作している。背後のレイヤーには同じような異種混交の線描が透かし見えはするが、自註で「『横断書法』の極限の作」(11)と記しているように、前作とはまったく対照的に水平の平行線がほぼ画面全面を支配している作品である。先に私は九楊の≪立棺≫における横断書法の部分的な線の乱れをシステム化されかねない書のプロセスへの自己批評と記したが、それを言い換えれば書のプロセスとは不可避的に発生する乱れや差異を受け入れる、あるいは生かすシステムであり、もしそれをしも表現というならば、表現とは差異そのものとして成立していることになろう。
美術評論家の峯村敏明はかつてミニマリズムやコンセプチュアリズムの差異をもたらす反復のシステムを"生きられたシステム"と呼んだが、それは≪歎異抄No.19≫の横断書法について言えるだけではなく、≪歎異抄No.18≫でも認められることである。異種混交のイメージ群は上から下へ、右から左へと平行線や行書きと同じ順序で書き進められたに違いないからだ。
九楊はこのような作は「着想」から生まれるのではない、「制作を通しての経験の重畳――つまり歴史が思わぬ作を生むのである」(12)と述べている。私にいわせればそれが書というものが宿す"全体性"なのだ。いまここにある筆蝕は、いまではないいつか、ここではないどこかと響き合っている。彼が書家としても関心を持つ詩人、吉増剛造なら、それを"遠心的なハーモニー"と呼ぶであろう。はたして歎異抄の全文を収めた≪歎異抄No.18≫が親鸞の思想と響き合っているか、正直に言ってその判断は私の手に余ることではあるが、この書家が総力で挑んだ作品であることは確かに伝わってくるのだ。
最後に石川九楊の本格的な出発点をなす作品、≪エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ≫(1972年)を取り上げることにしよう。このタイトルは十字架に架けられたキリストが最後に発したとされている言葉で、「神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。1972年は高度経済成長の一方でパリの五月革命(1968年)に喚起された全共闘運動が敗北に終わるという挫折感が若い世代を支配していた時期でもあり、九楊にとって痛切なリアリティーを持った言葉であったはずである。
会社勤めをしながら連日徹夜で書き上げたというこの大作は、権力の治具でもある書の法措定的な神話的暴力とは対極的な、破壊が創造でもある神的暴力の荒々しさがあるが、その渦中にもどこか知的な緊張をも感じさせるエネルギーが宿っている。そこにはタイトルの言葉以外にも「われわれには職がない」「ことばの暴力をきみは信じるか」「聖書のことば」「すべてはおわった」「熱望」といった断片的なフレーズが乱脈にコラージュされ、重ね書きされ、そこに先に述べた補助線や囲みや罫線が引き込まれているのだ。
『わが書を語る』と題された自伝図録で彼はこう述べている。この作品では筆毛の柔軟性を生かした書の表現の美質をあえて殺して「筆の軸の根元でこすりつけるようにして書いてゆく。鉛筆やペンで書いたような硬く直接的なタッチです。(…)むろん筆は痛みます。直接的な手応えの書き方は一般的にはタブー。これに加えて、所によっては二度書き、三度書きもしています」。(13)そう、まさにこの作品は筆蝕の新たな可能性の発見でもあったのだ。
「いまでも生々しく覚えていますが、これを書き終えた朝、まだ書も捨てたものではないと悟った」「僕はこの経験から、自分は生涯、書を書いていくことになるのだろうな、と実感しました」(14)
新たな書家の誕生を語る感動的なエピソードである。いかにも石川九楊は書の本質を筆蝕のドラマとして捉えることで、書道的情緒を払拭し、繊細にして堅牢でもある書の世界の可能性を切り拓いてきたのだ。この異例の書家に改めて敬意を捧げたい。
註
- 『筆蝕の構造―書くことの現象学』(『石川九楊著作集Ⅶ』、91-92頁、ミネルヴァ書房、2017年。初出は1992年)。
- 同上書、94頁。
- 『近代書史』、713頁上段、名古屋大學出版會、2009年。
- 同上書、712頁下段。
- 『ヴァルター・ベンヤミン著作集1 暴力批判論』、野村修・訳、晶文社、1975年(原著初出は1921年)。
- 前掲『近代書史』、712頁下段。
- 『自選自註 石川九楊作品集』、10頁、新潮社、2006年。
- 同上書、113頁。
- 『石川九楊自伝図録 わが書を語る』、107頁、左右社、2019年。
- 同上書、107頁。
- 前掲『自選自註 石川九楊作品集』、48頁。
- 同上書、49頁。
- 前掲、『石川九楊自伝図録 わが書を語る』、43頁。
- 同上書、50頁。