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私はかつて、ロートレアモン(Comte de Lautréamont, 1846-1870)の『マルドロールの歌』の一節を引いて、現代においては、言葉と書とは「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように」出会うしかないと書いた。文を書き綴る場ににじみ出る書きぶりの一種の味が書であった時代の、文と書の牧歌的な結合を切り裂かれ、それぞれに自立を目指し、近代の言葉(詩文)から切り離された書(筆蝕)は、戦後前衛書の段階に至って、動跡と色彩と造形の自立によって、言葉から乖離し、うまく言葉との回路をつなげないでいる。これに対して、私は、近代的な筆蝕の自立を認めつつも、言葉との回路の回復を慎重に模索することが必要不可欠であると考えてつづけている。
(中略)
これまでの私の書の道行がそうであったように、私の書は今後どのように展開するかは予想もつかない。だが、これまでの延長線上に想い浮かべられるようにも思えない。
なぜなら、私は、「書の究極のゴールは、誰もが普通に書いて、どの字も美しい」時代への到達であると考えている。しかしいまだ、その未来像が具体的に描かれてはいない以上、現在のような「シュールレアリスム」的出会いで可しと判断しているわけではない。困難な営為ではあるが、もう少し先まで行かねばならないのである。
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石川九楊「書の領域と表現の可能性」(『近代書史』名古屋大学出版会、2009年)より抜粋